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はじめに:矯正治療で「歯を削る」ことへの不安
「マウスピース型矯正装置を始めたいけれど、IPR(歯を削る処置)が必要だとインターネットで調べました。健康な歯を削っても本当に大丈夫なのでしょうか?」
最近当院に初診でいらっしゃった患者さんにこのようなご質問をいただきました。これまで虫歯治療などで「歯を削る=痛い、良くないこと」というイメージをお持ちの方にとって、矯正治療のために健康な歯を削るという行為は、直感的に恐怖や不安を感じてしまうものです。
しかし、現代の矯正治療において、この「歯を削る処置」は珍しい処置ではありません。治療の仕上がり(審美性・機能性・後戻りの防止)を左右する極めて重要なプロセスとなる場合があります。
この記事では、なぜ歯を削る必要があるのか、専門的な用語の意味、そして最も気になる「虫歯や歯周病へのリスク」について、歯科医学的エビデンス(科学的根拠)を交えながら詳しく解説していきます。正しい知識を持つことで、安心して治療に臨んでいただけるはずです。
専門用語の解説:IPR、ディスキング、ストリッピングとは?
まず、カウンセリングや診断の際に出てくる専門用語について整理しましょう。歯科医師によって使い方が異なることがありますが、以下の言葉はすべて同じ処置を指しています。
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IPR(アイピーアール):Interproximal Reduction(隣接面削合)の略称。世界的に最も一般的な呼称です。
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ディスキング(Disking):円盤状の器具(ディスク)を使って削ることからこう呼ばれます。
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ストリッピング(Stripping):やすりのような細い板(ストリップス)で削ることからこう呼ばれます。
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スライス(Slicing):歯と歯の間をスライスするように削ることから。
これらはすべて、「歯と歯の間(隣接面)のエナメル質を、安全な範囲内でわずかに削り、隙間を作る処置」を意味します。決して、虫歯治療のように歯を大きく削り取るわけではありません。最大でも0.5mm程度のわずかな隙間を作る繊細な処置です。
なぜ歯を削る必要があるのか?行うべき2つの医学的理由
「できれば歯を削りたくない」と誰もが思いますが、矯正治療においてIPRが提案されるのには、明確な医学的理由があります。大きく分けて以下の2点です。
理由1:歯を並べるスペースの確保
最も一般的な理由は、歯を綺麗に並べるための「スペース」を作るためです。専門的にはアーチレングスディスクレパンシー(Arch Length Discrepancy)の改善と呼ばれます。アーチレングスディスクレパンシーとは、「歯が並ぶ顎の骨の大きさ」と「歯の合計サイズ」の不一致を数値的に表したものです。
この状態を解消するためには、
①抜歯をする
②歯列を少し広げる
③歯を後方へ移動する
④そして今回のブログのテーマでもあるIPR
上記の方法のいずれか、あるいは組み合わせによって改善を図ります。
例えば、3人掛けのベンチに4人が座ろうとすると、誰かが前に飛び出したりしてガタガタになります(これが叢生・乱杭歯の状態です)。
一人ひとりの幅を少しだけスリムにする(IPRを行う)ことで、ベンチの中に綺麗に収めることができます。
なぜ矯正治療で歯を抜くのか?というテーマで過去にブログを書いていますので、是非こちらも参考にしてみてください。
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理由2:上下の歯の大きさのバランス調整(トゥースサイズ・ボルトン比の改善)
もう一つの重要な理由は、上下の歯の大きさのバランス調整です。これをボルトン比(Bolton Ratio)の適正化と呼びます[10]。
理想的な噛み合わせの状態を作るにあたり、上下で歯の大きさのバランスが異なると、綺麗に咬みあわないことがあります。そのような場合は上下の歯の大きさを調和させるために、IPRを行うことがあります。
いずれの場合も、歯を削ることのメリットが、デメリットを上回ると判断された場合にIPRは計画されます。したがって、必ずIPRが矯正治療で行われるわけではないので注意して下さい。
どのくらい削っても大丈夫なのか?エナメル質の厚さと限界値
「削る理由はわかったけれど、エナメル質を削って歯は弱くならないの?」という点について、科学的なデータを見てみましょう。
科学的根拠に基づく「安全な切削量」の基準
歯の表面は「エナメル質」という人体で最も硬い組織で覆われています。IPRを行うのはこのエナメル質の範囲内だけです。その内側にある「象牙質」まで削ることはありません。

エナメル質と象牙質の関係
IPRで安全に削れる量は「最大でもエナメル質の厚みの50%までにとどめておくことが良い」と考えています。これ以下の削除量であれば、歯の健康や寿命に悪影響を与えないことが多くの研究で示されています。ただし、系統的なレビューではこの50%という数字はRCTなど高品質エビデンスに基づいておらず、慎重に用いるべきとされています。
研究データに見る「歯種別」のエナメル質厚径
複数のシステマティックレビュー(過去の論文を総括した信頼度の高い研究)によると、一般的な永久歯の隣接面のエナメル質の厚さは以下の通りです[2, 3]。
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下顎前歯(下の前歯):約0.7mm ~ 0.8mm(片側)
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上顎前歯・奥歯:約1.0mm ~ 1.4mm(片側)
【安全性の計算】
IPRで最も多く行われるのは、歯と歯の間に「0.5mm以下」の隙間を作る処置です。これは隣り合う歯をそれぞれ「0.25mm」ずつ削ることを意味します。
最も薄い「下の前歯(厚さ約0.75mm)」であっても、0.25mm削った後に残るエナメル質は0.5mmあり、これは元の厚みの約67%にあたります。「50%以上を残す」という安全基準を十分にクリアしており、医学的に安全な範囲内と言えます。
ただし、当院ではより安全な処置とするために下記の点をルールとしています。
- 拡大鏡(ルーペ)を使用した切削処置:必ず拡大視野で歯を削る処置を行うようにしています。
- 切削時期の検討:がたつきが強い状態では正確にエナメル質を削ることができません。IPRを行うタイミングを慎重に見極めて行います。
- 原則0.3㎜以下の切削:上記の①②を意識しても、人の手で切削を行う以上、わずかな誤差が発生する可能性があります。0.5㎜までは安全な処置であると考えておりますが、当院ではさらに安全域を設けて0.3㎜までを原則としています。(ただし、例外的に0.5㎜までの切削を計画する場合もあります)
IPRを行うと虫歯(う蝕)のリスクは高まるのか?
「エナメル質を削ると、そこから虫歯になりやすくなるのでは?」
これは非常に重要な疑問ですが、結論から申し上げますと、「適切なIPRを行い、ケアを行えば、虫歯のリスクは上がらない」ことが証明されています。
虫歯発生率に「差はない」という研究結果
Jarjouraらの研究[5]では、IPRを行った歯と行っていない歯を比較した結果、「虫歯の発生率に有意な差は認められなかった」と報告されています。
なぜ削っても虫歯にならないのか?
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徹底した研磨(Polishing):IPR後のザラザラした面を、専用の器具でツルツルに磨き上げます。これによりプラーク(歯垢)が付着しにくくなります[4]。
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清掃性の向上:ガタガタの歯並びが改善されることで歯ブラシが届きやすくなり、お口全体の虫歯リスクはむしろ下がることが多いです[6]。
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フッ素塗布:処置後に高濃度のフッ素を塗布し、エナメル質の再石灰化(修復)を促進させます。
歯周病のリスクは上がる?それとも下がる?
歯茎や歯を支える骨(歯周組織)への影響についても、長期的な安全性が確認されています。
長期研究が証明する安全性
矯正歯科分野で著名なZachrissonらによる10年以上の長期経過観察研究[1]によると、「IPRを行った歯と行っていない歯の間で、歯周病の進行(歯周ポケットの深さや骨の吸収)に差は認められなかった」とされています。つまり、IPRが原因で歯周病が悪化することはありません。ただし、過度に歯根同士が近接した場合は、理論的には骨吸収のリスクが指摘されるため、歯根形態と骨幅の評価が重要です。
実はメリットも多い?ブラックトライアングルの改善
大人の矯正治療では、歯が並んだ後に歯と歯茎の間に三角形の隙間(ブラックトライアングル)ができることがありますが、IPRで歯の形を整えることで、この隙間を小さく目立たなくすることが可能です。また、歯と歯の接触面が面で接するようになるため、食べ物が挟まりにくくなり、歯周組織の健康維持にも寄与します[7, 8]。
実際の治療手順と痛みについて
IPRは基本的に麻酔なしで行う痛みのない処置です。
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処置:手用のやすりや、専用の機械を使用します。振動は感じますが、エナメル質には神経がないため「削られる痛み」はありません。
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研磨・確認:フロスが引っかからないよう滑らかに磨き上げます。
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フッ素ケア:エナメル質を保護します。
不快感としては「歯石を取る時の振動」や「爪にやすりをかけている感覚」に近く、数日で落ち着く一時的な知覚過敏が出ることもありますが、永続的なダメージはありません。
よくあるご質問(Q&A)
Q1:IPR(歯を削る処置)は痛いですか?麻酔はしますか?
A1:IPRは、神経のないエナメル質の範囲内で行うため、基本的に痛みはありません。そのため、麻酔も必要ありません。処置中は「歯石を取る時の振動」や「爪にやすりをかけている時の感覚」に近く、不快感は少ないです。稀に、処置後に一時的な知覚過敏(冷たいものがしみるなど)が出ることがありますが、数日で落ち着くことがほとんどです。
Q2:削った歯は虫歯になりやすくならないのでしょうか?
A2:適切な手順でIPRを行い、処置後にフッ素ケアを行えば、虫歯のリスクは上がりません。研究でも、IPRを行った歯と行っていない歯で虫歯の発生率に差はないことが証明されています。むしろ、ガタガタの歯並びが改善されることで歯磨きがしやすくなり、お口全体の虫歯リスクは下がることが多いです。
Q3:IPRをした後、歯茎が下がったりしませんか?
A3:長期的な研究により、IPRが原因で歯周病が進行したり、歯茎が下がったりすることはないと確認されています。逆に、IPRで歯の形を整えることで、歯と歯茎の間の隙間(ブラックトライアングル)を改善したり、食べ物が挟まりにくくなることで歯茎の健康維持につながる場合もあります。
Q4:自分の歯を削る量は事前に教えてもらえますか?
A4:はい、必ず事前にお伝えします。当院では、精密検査(レントゲン撮影など)の結果に基づき、どの歯を何ミリ削る必要があるかを治療計画(クリンチェックなど)でシミュレーションします。治療を開始する前に、削る量や箇所について詳しくご説明し、患者さんに同意をいただいてから処置を行います。
Q5:もしIPRを断ったらどうなりますか?
A5:IPRが必要と診断されたケースでIPRを行わない場合、以下のような問題が生じる可能性があります。ただし、どうしても歯を削ることに抵抗があるという方に対しては、代替案を提案させていただける場合もあります。
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歯が並ぶスペースが足りず、抜歯が必要になる。
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無理やり並べることで、歯が前に出て出っ歯になったり、歯茎が下がったりする。
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上下の噛み合わせのバランスが合わず、治療後に後戻りしやすくなる。 IPRは、これらのリスクを回避し、より良い治療結果を得るために提案される重要な処置です。不安な点は遠慮なく歯科医師にご相談ください。
まとめ:正しい知識で選ぶ、歯を守るためのIPR
矯正治療における「歯を削る(IPR)」という処置は、単に隙間を作るだけでなく、以下のような多くのメリットをもたらす高度なテクニックです。
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健康な歯を抜かずに矯正できる可能性を高める。
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上下の噛み合わせのバランスを整え、治療後の後戻りを防ぐ。
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歯の形を整え、清掃性を向上させることで、将来的な虫歯・歯周病予防につなげる。
当院では、以下の参考文献にあるような確かなエビデンスに基づき、レントゲンによる事前の厚み確認と、拡大視野での精密な処置を行っています。
ご自身の歯について「削る必要があるのか」「どのくらい削るのか」など、不安な点はいつでもお気軽にご相談ください。
参考文献(References)
本記事は、以下の矯正歯科および歯周病学に関する主要な論文・文献を参考に作成しています。
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Zachrisson BU, Minyaev A, Heyeras KJ, Thoresen G. “Dental health assessed more than 10 years after interproximal enamel reduction of mandibular anterior teeth.” Am J Orthod Dentofacial Orthop. 2007; 131(2): 162-169.
(IPR実施後10年以上の経過において、虫歯や歯周病のリスク増加が見られなかったことを証明した研究)
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Gómez-Aguirre JN, et al. “Proximal enamel thickness of the permanent teeth: A systematic review and meta-analysis.” Am J Orthod Dentofacial Orthop. 2021; 160(1): 14-26.
(永久歯のエナメル質の厚さに関するシステマティックレビュー。安全な削合量の根拠)
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Stroud JL, English J, Buschang PH. “Enamel thickness of the posterior dentition: its implications for nonextraction treatment.” Angle Orthod. 1998; 68(2): 141-146.
(臼歯部のエナメル質厚を計測し、IPRの安全域を示唆した論文)
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Sheridan JJ, Ledoux PM. “Air-rotor stripping and proximal sealants. An SEM evaluation.” J Clin Orthod. 1989; 23(12): 790-794.
(IPR後のエナメル質表面の粗さと、適切な研磨・シーラントの効果に関する評価)
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Jarjoura K, Gagnon G, Nieberg L. “Caries risk after interproximal enamel reduction.” Am J Orthod Dentofacial Orthop. 2006; 130(1): 26-30.
(IPRを受けた患者の虫歯発生リスクを調査し、非実施群と有意差がないことを示した重要論文)
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Lapenaite E, Lopatiene K. “Interproximal enamel reduction in orthodontics: a systematic review.” Stomatologija. 2014; 16(1): 29-38.
(IPRの適応症、合併症、および虫歯・歯周病への影響を包括的にまとめたシステマティックレビュー)
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Tal H. “Periodontal response to space closure by interproximal reduction.” Int J Periodontics Restorative Dent. 1984; 4(6): 32-39.
(IPRと歯周組織の反応に関する研究)
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Kurth JR, Kokich VG. “Open gingival embrasures after orthodontic treatment in adults: prevalence and etiology.” Am J Orthod Dentofacial Orthop. 2001; 120(2): 116-123.
(ブラックトライアングルの発生要因とコンタクトポイントの調整に関する研究)
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Litalien A, et al. “The Role of the Interproximal Enamel Reduction in Orthodontics: A Systematic Review.” Appl Sci. 2025; 15(19): 10645.
(近年のIPRに関する安全性と有効性を再確認したレビュー論文)
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Bolton WA. “Disharmony in tooth size and its relation to the analysis and treatment of malocclusion.” Angle Orthod. 1958; 28(3): 113-130.
(ボルトン比の概念と歯のサイズ調整の必要性を説いた古典的文献)



