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【はじめに】親御さんが抱く焦り
「お友達の〇〇ちゃんが、最近矯正を始めたみたい。うちの子も早くやらないと手遅れになるんじゃないかしら?」
「学校の歯科検診で歯並びを指摘された。すぐに歯医者に行かなきゃ」
当院の矯正相談でも、このような焦りや不安を抱えて来院される親御さんは非常に多くいらっしゃいます。私にも小学生の子供が2人おりますので、我が子の健やかな成長を願う親心として、よく分かります。特に、昨今はSNSやインターネット上で「こどもの矯正は早期発見・早期治療がよい」「歯を抜かないために拡大治療が必要だ」といった情報が溢れており、保護者の方々が混乱されてしまうのも無理はありません。
しかし、矯正歯科を専門とする歯科医師の立場からはそのような情報は半分正解で、半分誤りであると考えています。それは、「すべてのケースで早期治療が必要なわけではない」、さらに言えば「早く始めることが、必ずしも良い結果を生むとは限らない」ということです。
「早く始めれば、その分早く終わる」
「子供のうちに始めれば、簡単な装置だけで治る」
これらは、一般的に目にしたり聞いたりする情報かもしれませんが、矯正歯科学のコンセンサスとは必ずしも一致しません。むしろ、不必要な早期介入は、お子様の心身への負担を増やし、トータルの治療期間を長引かせてしまうことさえあるのです。
本記事では、感情論やセールストークではなく、世界中の研究論文やデータに基づき、「なぜ当院では、あえて『経過観察(今は何もしない)』という選択を推奨する場合があるのか」について、詳しく解説していきます。
早期治療(1期治療)は、トータルの治療期間を短縮するのか?
矯正治療を検討する際、最も気になる点の一つが「期間」でしょう。子供の頃から始めれば、大人になってから始めるよりも短期間でスムーズに終わるイメージがあるかもしれません。しかし、科学的なデータはその直感を否定しています。
一般的に信じられている「メリット」と、実際のデータとの乖離
「第1期治療(小児矯正)」と、永久歯が生え揃ってからの「第2期治療(本格矯正)」。この2つを組み合わせる「2段階治療」は、日本の矯正歯科において広く行われています。

多くの親御さんは、「第1期治療を行っておけば、第2期治療は不要になる、あるいはごく短期間で済む」と期待されます。しかし、実際には第1期治療だけで完璧な歯並びと噛み合わせが完成するケースばかりではなく、永久歯への生え変わりを待ち、仕上げの第2期治療が必要となる場合があります。
ここで問題となるのが「総治療期間」です。
科学的データが示す「2段階治療」の実情
これに関する信頼性の高い研究報告をご紹介します。
Tsung-Ju Hsiehらによる研究(Assessment of orthodontic treatment outcomes: early treatment versus late treatment, 2009)や、Mavreasらによるシステマティックレビュー(Factors affecting the duration of orthodontic treatment, 2008)では、以下のような結論が導き出されています。
これらは大学病院等での数百症例規模のデータを分析したものですが、「混合歯列期(乳歯と永久歯が混ざった時期)から治療を開始したグループ」は、「永久歯列期(全て大人の歯)になってから開始したグループ」と比較して、有意に総治療期間が長くなる傾向が示されたのです。
つまり、医学統計上は「早く始めれば早く終わる」のではなく、「早く始めると、トータルの治療期間は長くなる」というのが真実なのです。
なぜ期間が延びてしまうのか?「観察期間」という盲点
なぜ、このような逆転現象が起きるのでしょうか。その最大の要因は「生え変わりを待つ時間(観察期間)」の存在です。
第1期治療で顎を広げたり前歯を整えたりしても、奥歯の永久歯が生え揃うまでには数年のタイムラグがあります。この間、完全に治療を終了することはできず、定期的なチェックや保定装置の使用が必要になります。
小学校低学年から治療を開始し、中学生・高校生でようやく終了となると、トータルで10年近く歯科医院に通い続けるケースも珍しくありません。
長すぎる治療期間は、お子様のモチベーションを著しく低下させます。「物心ついた時からずっと装置が入っている」という状態は、思春期のお子様にとって大きなストレスとなり、いざ仕上げの第2期治療が必要になった時に、「もう矯正はやりたくない」と治療をドロップアウトしてしまう「矯正疲れ」を引き起こすリスクすらあるのです。
医学的エビデンスによる検証:出っ歯とガタガタの治療効率
では、具体的な歯並びのタイプ別に、早期治療の有効性を見ていきましょう。
上顎前突(出っ歯)における早期介入の有効性議論
上の前歯が出ている「上顎前突(いわゆる出っ歯)」は、早期治療の対象となりやすい症例です。しかし、これも期間短縮には繋がりにくいことが分かっています。
R. Männchenらによる後ろ向き研究(Does Early Treatment Improve Clinical Outcome of Class II Patients?, 2022)では、クラスII(上顎前突)の症例において、以下の比較が行われました。
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早期開始群(1期+2期)の総治療期間:平均 35.3ヶ月
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遅期開始群(2期のみ)の総治療期間:平均 25.9ヶ月
結果として、早期に開始したグループの方が、約9ヶ月も治療期間が長かったのです。
早期に治療を行っても、完全な咬合を作るためには第2期治療でもしっかりとした治療が必要になることが多いため、トータルの効率は決して良くないことが示唆されています。
叢生(ガタガタ)に対する拡大治療の限界
次に、最も相談が多い「叢生(ガタガタの歯並び)」についてです。
「顎を広げれば歯を抜かずに並べられる」という説明を耳にすることがあるかと思います。確かに、軽度~中等度の叢生であれば、床矯正装置などで顎を拡大することでスペースを作れる場合があります。
しかし、Hibernon Lopes Filhoらのレビュー(Early vs late orthodontic treatment of tooth crowding by first premolar extraction, 2015)などの研究では、重度の叢生に対して早期の拡大を行っても、長期的にはその効果が限定的であることが指摘されています。
顎の骨の大きさには遺伝的な限界があります。顎のサイズに対して歯が圧倒的に大きい場合、無理に顎を広げても、歯は「ただ外側に傾斜して並ぶ」だけになりがちです。その結果、口元が突出してしまったり、歯ぐきが下がってしまったり、あるいは装置を外した途端に後戻りをしてしまったりします。
結局、中学生になってから「やはり抜歯が必要です」と診断され、再治療を行うことになる。これは、お子様にとっても親御様にとっても、失望が大きいものと言えるでしょう。
当院が「早期介入(1期治療)」を推奨する具体的な臨床判断
ここまで「待つこと」の重要性をお話ししましたが、もちろん「今すぐやらなければならない」ケースも存在します。当院が早期介入を推奨するのは、主に以下の4つの条件に当てはまる場合です。
1. 骨格性の不調和に対するアプローチ(成長の利用)
「歯のズレ」ではなく「骨のズレ」が原因である場合、成長期にしかできない治療があります。
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反対咬合(受け口): 下顎が上顎より前に出ている場合。
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交叉咬合(クロスバイト): 顎が左右にズレて噛んでいる場合。
これらは放置すると、成長とともに骨格の変形が悪化し、顔の歪みとして定着してしまいます。大人の骨格になってからでは、骨を切る手術(外科矯正)でしか治せなくなる可能性が高いため、これらに関しては「比較的早期からの治療介入」が原則です。この場合の目的は「期間短縮」ではなく「重度の骨格的問題への移行を未然に防ぐ」という、より根本的な部分にあります。
2. 出っ歯による外傷リスクの回避と心理的要因
前歯が極端に突出している場合、転倒やスポーツの接触などで前歯を折ってしまうリスクが高まります。
K. B. Batistaらのコクランレビュー(Orthodontic treatment for prominent upper front teeth in children and adolescents, 2018)でも、早期治療は「前歯の外傷リスクを低減する」という点において明確な根拠があるとされています。
また、「出っ歯」が原因で学校でからかわれたり、人前で笑えなくなったりしている場合、それは立派な医学的適応です。心の健康を守るための早期治療は、非常に意義があると考えます。
ただし、出っ歯傾向があるお子様の治療の際に必ずお伝えするのは、2期治療の可能性があるということです。第2期治療の可能性をご理解いただいた患者さんのみご契約をさせていただいております。
3. 第2期治療の難易度を下げるための戦略的介入
早期に一部の問題を解決しておくことで、将来の第2期治療において「抜歯の可能性を下げる」「非常に難しいワイヤー操作を回避する」といったメリットが見込める場合も、介入を推奨します。ただし、これは「トータル期間が短くなる」こととは別であり、「将来の治療の質を上げるための先行投資」という意味合いが強くなります。
4. 第1期治療で治療の終了が見込める症例
早期に治療介入をすることで、第2期治療が不要となるケースも多くあります。この見極めが矯正歯科を専門とする当院の最大の強みであると考えています。近年ではマウスピース型矯正装置を使用することで、小児矯正でも永久歯も含めたすべての歯の細かな移動が達成できるようになりました。まだ科学的に根拠は少ない状況ですが、経験則的に小児矯正で治療が終了できる症例が増えてきています。
当院ではこのような小児矯正で治療が完結できることが見込める症状のお子様には治療の開始をおすすめしています。
当院が「経過観察」を推奨するケースとそのメリット
逆に、以下のようなケースでは、私たちは自信を持って「今は待ちましょう」とご提案します。
重度のガタツキにおいて「あえて治療をすぐにせずに様子をみること」は立派な治療である
明らかに顎のスペースが足りておらず、将来的に抜歯の可能性が高い「重度の叢生」の場合、中途半端に第1期治療を行うことはメリットが薄いと考えます。
小学校低学年で無理に拡大装置を使っても、数年後に結局抜歯矯正になるのであれば、その数年間の努力は報われません。
それよりも、永久歯が生え揃う中学生~高校生頃まで待ち、短期間で一気に治療を行うことの方がはるかに効率的で幸せです。
これにより、治療期間は2年~2年半程度に凝縮されます。小学校からの6~7年に及ぶダラダラとした通院から解放され、部活や勉強に忙しい時期でも、短期間で集中してゴールを目指すことができます。これは医学的にも理に適った、極めて効率的な戦略です。
患者様のライフスタイルと「治療疲れ」の防止
Mohammad A. Hamidaddinのスコーピングレビュー(Optimal Treatment Timing in Orthodontics, 2023)においても、早期介入はコストや患者負担の面で、必ずしも一括治療より優れているとは言えないと結論付けられています。
お子様には、学校生活、習い事、受験など、矯正以外にも頑張るべきことがたくさんあります。
「なんとなく早め」の治療で長期間拘束することは、虫歯のリスクを高め、親子関係の摩擦(装置をつけなさい!という喧嘩など)を生む原因にもなります。
「今は何もしない」という判断は、お子様の大切な時間を守り、本当に頑張るべきタイミングにエネルギーを温存するための、積極的な処方箋なのです。
【まとめ】「待つ」こともまた、重要な医療行為である
小児矯正において、「待つ」という選択は決して「放置」や「手抜き」ではありません。
それは、お子様の将来を見据え、最も効率的で、最も負担が少なく、そして最も美しい結果を得るために計算された、高度な医療判断の一つです。
当院では、目先の利益や不安に惑わされることなく、お子様一人ひとりにとっての「ベストなタイミング」を見極めることをお約束します。
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よくあるご質問(Q&A)
Q1. 学校の検診で「歯並びが悪い」という紙をもらいました。すぐに治療を始めるべきですか?
A. すぐに」や「相談」を受けることは強くお勧めしますが、すぐに「治療(装置装着)」が必要とは限りません。
検診の指摘は「異常の疑いがある」というサインですので、まずは専門医による診断を受けてください。その上で、緊急性がなければ、適切な時期まで定期検診(経過観察)を行いながらタイミングを待つことをご提案します。
Q2. 他のクリニックでは「今のうちに顎を広げないと、将来抜歯になる」と言われました。本当ですか?
A. ケースバイケースですが、必ずしもそうとは言い切れません。
近年の研究では、早期に拡大治療を行っても、骨格的な限界を超えて歯を並べることは難しく、長期的には抜歯が必要になるケースも一定数あることが分かっています。無理な非抜歯治療は、口元の突出や後戻りのリスクを高めます。「今広げれば絶対に抜歯しなくて済む」という保証はないことをご理解いただいた上で、冷静な判断が必要です。
Q3. 「経過観察」の間は、本当に何もしなくて良いのでしょうか?
A. 医院での装置治療は行いませんが、ご家庭でのケアは重要です。またご不安であれば半年から1年に一度経過観察で受診をしていただくことを推奨しています。
具体的には、虫歯の予防、正しい食生活、悪習癖(指しゃぶりや口呼吸)の改善などは、経過観察期間中も指導させていただきます。これらは将来の矯正治療をスムーズにするための大切な準備期間となります。
Q4. 大人になってから矯正を始めると、歯が動かない・痛いと聞きましたが?
A. 確かに子供に比べると歯の動きはゆっくりですが、動かないということはありません。中高生くらいの時期は歯の動きも早く治療期間が短くなる傾向にありますので矯正治療を行う時期としてはおすすめができます。
参考文献:
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Tsung-Ju Hsieh et al. “Assessment of orthodontic treatment outcomes: early treatment versus late treatment.” The Angle Orthodontist, 2009.
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D. Mavreas et al. “Factors affecting the duration of orthodontic treatment: a systematic review.” European Journal of Orthodontics, 2008.
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R. Männchen et al. “Does Early Treatment Improve Clinical Outcome of Class II Patients? A Retrospective Study.” Children, 2022.
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Hibernon Lopes Filho et al. “Early vs late orthodontic treatment of tooth crowding by first premolar extraction: A systematic review.” The Angle Orthodontist, 2015.
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K. B. Batista et al. “Orthodontic treatment for prominent upper front teeth (Class II malocclusion) in children and adolescents.” Cochrane Database of Systematic Reviews, 2018.
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Mohammad A. Hamidaddin. “Optimal Treatment Timing in Orthodontics: A Scoping Review.” European Journal of Dentistry, 2023.



